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木村 私は2年生でした。8月6日の朝は、空襲警報が解除されていました。学校の運動場で作業をしようとしていた時に、長く続く「ドォーン」という音が聞こえました。家に帰ろうと午後3時に備後十日市駅(現在の三次駅)に行くと、そこで広島から芸備線で運ばれた方々の惨状を目の当たりにし、そのまますぐに、救護に携わることになりました。衣服もボロボロで、皮膚が焼け爛れ、腕の肉が垂れ下がっていて、むごかったですよ。背負ってあげた時に、足の皮膚が「ズルッ」と剥けてしまった―あの感覚は決して忘れられません。山﨑 私は三次の工場(学校の体育館)にいました。窓越しに「ピカッ」と光ったのを覚えています。8月9日、救護のため広島市内に向い、江波の救護所で悲惨な状況を目の当たりにしました。一番悲しかったのは、亡くなったお母さんのお乳を探して、赤ちゃんが、横たわったお母さんの胸あたりを行ったり来たりしていたのがね―。あの子はどうなったのだろうか。あちこちから「水をくれ」と呼ぶ声があがる中で、あげられずにひたすら看護をしました。木村 二人の兄が戦死し、母親はずっと兄が生きていればと嘆いてばかりいました。召集令状が届いたら、本当は行ってほしくないのに、みんなで「おめでとうございます」と言い、「万歳」で送り出すのです。私は子どもを亡くしてみて、あの時の母親の気持ちがよくわかりました。どんなに辛かったことだろうと―。山﨑 子どもや孫には、二度と私たちのような思いをさせたくないです。木村 私もそう思います。 対話を終え、板金さんは、「私には今の時代しかわからない。二人の体験談を直接伺い、残された方の辛い気持ちなどを思うと胸が痛くなった。平和な世界を望むと言うだけではいけないと思う」と話されました。 次代を担う世代に「ヒロシマ」をどのようにして伝え、つないでいくのか―。市民の皆さん一人ひとりが、自分のこととして考え、見て聞いて感じたことを次の世代へと伝えてください。8月1日(土)に三良坂平和公園一帯で「平和のつどいMIYOSHI2015」を開催します。この機会に戦後70年を振り返り、平和について考えてみませんか。木村さんと山﨑さんには、若者に伝えたいことを、板金さんには、まず自分にできることについてメッセージを残していただきました。【メッセージ】 左から、木村さん「命の大切さ」、板金さん「過去を知ること」、山﨑さん「時間をそまつにしないで大切に」特 集戦後70年あの は決して忘れられません 感覚 二度と同じ をさせたくない 思い広報みよし 2015.7月号5

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