備北のかがやき第18号
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敬老の図 (※4)1812年(文化9年)3月、頼杏坪は恵蘇郡(庄原市山内地区)の70歳以上の者120名を、山内日吉神社に招き、敬老会の嚆矢ともいうべき酒宴を催し、民情に触れようとした。昭和34年1月30日庄原市指定重要文化財。日吉神社(庄原市山内町)所有。問 (一社)庄原市観光協会☎ 0824-75-0173非公開雨乞い祈祷の図 (※5)1814年(文化11年)恵蘇郡は干ばつに苦しみ、代官頼杏坪は日吉神社において雨乞祈祷をおこなった。祈祷のかいがあり、午後には大量の雨となったという。昭和34年1月30日庄原市指定重要文化財。日吉神社(庄原市山内町)所有。問 (一社)庄原市観光協会☎ 0824-75-0173非公開頼杏坪とその時代再び中村憲吉の言葉を借りよう。「古来詩人学者にして実際の政務に当り、真に治績の挙つたものは、余り多くないやうである。しかし杏坪先生はその例外であつて、治績は頗る挙つてゐる。その宰邑は私の郷里奥備後の四郡(当時)であつて、約五万石の狭少な土地であるから、所謂大経綸などの施さるべき土地ではない。(略)私の郷里では今なほ先生を、詩人学者としてよりも、寧ろ名郡宰として記憶し、尊敬してゐる。実に文化八年五十六歳の就任より、天保元年七十五歳致仕に至る歿前二年までの、二十ヶ年の長い晩年の殆ど全部を、嵐瘴多き貧郡の治務に尽瘁されたのである。実際に先生の宰邑は、民力甚しく疲弊して人心荒放、頗る難治の郡とされてゐた。杏坪先生の苦労も容易なものでなかつたらしい。」(※1-3)頼山陽は、1829年(文政12年)、伊丹の酒を携え慰問に訪れている。(※2)次ページでは、備北の幕末維新ゆかりの地を訪ねます。関連イベント若冲に魅せられた女性画人 平田玉蘊の美の交遊住 奥田元宋・小由女美術館 三次市東酒屋町453-6問 奥田元宋・小由女美術館 ☎ 0824-65-0010営 9:30~17:00(満月の日は~21:00) 休 第2水曜日平成30年3月1日~4月15日375運甓居三次ふれあい会館三次市立三次小学校三次商工会議所三次社倉三次社倉(広島県指定史跡)(※3)社倉は、飢饉に備えて穀物を特別に蓄えておく施設。広島藩では、1779年(安永8年)藩内全域に社倉法の実施を命じ、以後、明治初年まで存続。三次社倉は、その大部分を頼杏坪が三次町奉行在職中に設けたものとされている。住 三次市三次町1839-5問 (一社)三次市観光協会☎ 0824-63-9268充糧碑と柿木 (※6)恵蘇郡は、鉄鉱の利益を受けることもなく、さらに天災により困窮していた。このため来るべき飢饉の備えとして、また柿渋を利用した殖産を起こすため、頼杏坪は柿の栽培を奨励した。郡内10村に2,000本余りの柿の植栽がなされたことを詩にしたためている。住 庄原市山内町日吉神社問(一社)庄原市観光協会☎ 00824-75-0173 老夫未細讀梁書宛似休文來誨予行看貧民助生計十村栽柹二千餘【大意】私は老いてしまったのに、まだ「梁書」もつぶさに読んでいない。まるで梁書を編集した「休文」が私に教えに来てくれたようだ。郡内を回ればきっと見ることだろ。貧しき人々の生計が助かることを。山内十村には、柿が二千余り植えられている。充糧碑課民種柿至三千四十六株文政庚寅春三月立【大意】飢饉に備えて植栽してきた柿が一八二九年には山内全村に三千四十六本となり、結実に至った。翌年、文政十三年春、この充糧碑を建てた。参考文献※1-1~3:斎藤茂吉、土屋文明編『中村憲吉全集』全4巻(岩波書店、1937年)※2:運甓居を訪ねる(頼杏坪とその時代)の漢詩解釈、及び頼杏坪、頼山陽の描写の多くは中村真一郎著「頼山陽と   その時代」に負うところが大きい。中村真一郎『頼山陽とその時代上、中、下巻』(中央公論社、1976年)※3:広島県の文化財〔http://www.pref.hiroshima.lg.jp/〕(最終検索日 : 2017 年8月25 日)※4~5:庄原市の文化財〔http://www.city.shobara.hiroshima.jp/〕(最終検索日 : 2017 年8月25 日)※6:菅茶山記念館『菅茶山と来家の人々』(菅茶山記念館 1996年)頼 杏坪(らい きょうへい)名は惟ただなご柔、字は千せん祺き・季立、号は春草堂、通称は万四郎、別号に春草、杏翁。1756年(宝暦6年)、竹原に生まれる。頼三兄弟の一人。二人の兄に従って大阪で勉学し、1783(天明3)年、春水の江戸詰めに随行し服部栗斎に教えを受けた。1785年、広島藩儒となり、以降春水とともに広島藩士子弟の教育にあたる。1797年、春水に代わり世子の侍読として江戸に赴く。1811(文化8)年、御納戸奉行上席で郡役所詰めとなり、1813年、三次(今の三次市)・恵蘇(今の庄原市)両郡の代官となり、1816年には奴可(今の庄原市)・三上(今の庄原市)が加わり、4郡の代官となった。翌年には藩の地誌『芸藩通史』の編集にも着手している。1828年(文政11年)73歳で三次邑宰(町奉行)となり、2年間三次に居住。1834年(天保5年)歿。江戸時代後期の漢詩人、歴史家、思想家、文人。頼杏坪の甥。名は襄、字は子成。通称を久太郎、別号に三十六峰外史。1780(安永9)年、頼春水・静子の長男として大坂に生まれる。1797(寛政9)年、18歳のとき叔父の頼杏坪に従い江戸に遊学し、尾びとうじしゅう藤二洲に師事。著書の『日本外史』は幕末の尊皇攘夷運動に影響を与え、おそらく19世紀を通じて最も多くの日本人に愛読された。菅茶山・浦上春琴・田能村竹田・江馬細香・平田玉蘊ら多くの文人墨客と交わった。天保3年(1832)歿。頼 山陽(らい さんよう)頼杏坪の甥 運甓居とその周辺地図文芸的公共圏ともいうべき杏坪や山陽の多彩な交友の一端を知る。15

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