広報にじ48号
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広島市内で育ち、十六歳で被爆された上田さん。戦争、原爆の悲惨さ、そして平和の大切さを語ってくださいました。―戦時中の苦しい生活―我が家は、原爆ドームから約1㎞ほどの場所にありました。私が十歳すぎた頃から戦争がひどくなり、物資が不足していきました。特に原爆投下の三年前くらいからは急激に悪化し、小さい子どもまで勤労奉仕(軍事のために無償で働く)させられました。食べ物も、麦飯すら無い状態で、〝こうりゃん〟という植物の絞りカスや、大豆の絞りカスを混ぜたご飯や芋を主食にして、みんな命をつないでいました。―母との最後の思い出―八月五日。その日は空襲もなく、久し振りに母と一緒に寝ました。母は何日かぶりにぐっすりと眠っていましたが、私は一睡もできませんでした。今考えれば、母との最後の夜だったからだと思います。八月六日の朝、私は勤労奉仕先に向かいました。途中、警戒警報が鳴ったのでいったん家へ戻り、解除となったのでまた家を出ました。最初に家を出るときには、庭を掃いている母が私の姿を見ているのがわかりました。二回目には、私が、隣の美容室で働く母の姿を◆神石高原町原爆被害者協議会 神石支部上うえ田だ 桂けい子こさん見ながら家を出ました。それが、母との最後でした。―一瞬にして壊されたもの―八時過ぎに家を出て、歩いていると、突然目の前がピカーッと光り、その途端にダァーンと前に押されました。目を開けると辺りは真っ暗で、広島市全体が一瞬にして真っ暗になっていました。少し逃げた所から後ろをふり返ると、市内全体からは、もくもくと煙が立ち上り、入道雲のようなものが出ていました。市内は焼け、熱くて入れる状況ではなかったので、古市(現 安佐南区)に疎開しているおばあさんの元へ行きました。 原爆投下の次の日には義理の叔母と、母を捜しに市内へ戻りました。まだ熱い横川に入ると、それは大変な光景でした。死んだ人や、焼けただれて呼吸困難な人。川には数え切れないほどの死体が水に浮かんでいました。それはまさに生き地獄でした。何日も母を捜し続け、やっと収容所の名簿録に母の名前を見つけました。しかし、どんなに捜しても、母の姿はありませんでした。その収容所のとなりでは、遺体を焼いていました。鳶とび口ぐちを遺体の背中に引っかけて引きずり、パーンと投げては焼いていたのです。私の母もそうやって焼かれたのかと思うとショックで、私はそこへへたばる4444ような気持ちでした。それからも、ずっと母を捜しましたが、九月の始めにようやく諦めました。私の叔母も市内からおばあさんの元へ戻ってきました。その若い叔母は、爆心地の近くで被爆したため、髪の毛が抜け、顔や体に真っ黒い斑点がいっぱい出ました。原爆症でした。原爆で内臓も溶け、血の玉を何度も吐いて弱っていき、九月前に叔母は亡くなりました。―今、伝えておきたい想い―当時のことは、今でもくっきりと覚えていて忘れることはないです。悲しい、本当に思い出したくない記憶です。けれども、最近になって、私が被爆体験を言わないと、伝える人がいないのだから今、伝え残しておくべきだと思うようになったんです。一番に思うことは、戦争は駄目です。戦争は人を変えます。戦争ほど怖いものはないです。世の中を戦争にならないように努力していくのが、これからの人のあり方だと思います。どういうことがあっても戦争はいけません。人を憎んだり恨んだりすることが戦争のはじまりです。他ひ人とも自分と同じように生きて、同じようにぬくもりを感じる人間です。相手のことを考える事が、戦争をなくす一歩だと思うんです。生きているもの同士で、この幸せな平和を守っていくことです。平和ほど大切なものはないですよ。平和でこうしていられることに感謝していくこと。それが、一番平和が続く基礎です。どんな世が来ても、平和を続けて行かなくてはいけない。それが、私らの子孫に対するたった一つの言葉です。被爆七十一年平和を考える【取材後記】 「平和」であることがどれだけ幸せなことか,何度も話される上田さん。平和のためにできること。それは,決して難しいことでなく,身近な人を大切にする一歩からなのだと教えていただきました。上田桂子さん10広報にじ No.48

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