広報神石高原2月号
6/18

    「教養のまち-神石高原町」 読書の集い―読書感想文コンクール受賞作品紹介―【黒い雨の部】最優秀賞「黒い雨」を読んで一般 柏かしわ床とこ 勝かつ子こさん「戦争はいやだ。勝敗はどちらでもいい。早く済みさえすればいい。いわゆる正義の戦争よりも不正義の平和の方がいい」と、主人公の閑間重松さんは言っています。これは作者井伏鱒二さんの願いでもあるでしょう。私が、「黒い雨」をもう一度読んでみようと思ったのは、「8月6日を節目の日として平和について思いを馳せよう」という新聞の天風録がきっかけでした。神石高原町が舞台となっているこの小説から「原爆」について改めて考えてみたいと思いました。「黒い雨」では、重松さん一家の小畠村での穏やかな日常と交差して、「被爆日記」が綴られています。「わしのヒストリーじゃ」と重松さんは自身の日記だけでなく、姪・矢須子さんの日記や妻・シゲ子さんの戦時下の食料事情の記録も清書していきます。昭和20年8月5日から8月15日までの被爆日記。原爆が落とされる前日から終戦を告げる玉音放送がされるまでの11日間の詳細な記録です。逃げるだけで精一杯であろうに、重松さんは何かに突き動かされるかのように必死でメモを取り続けています。命懸けのヒストリーを残してくださいました。すさまじい被爆時の状況が淡々と、事実をそのまま伝えています。私は、まるで「原爆の絵」を見ているかのような錯覚を覚えました。もし、「黒い雨」に終始被爆の恐ろしい状況だけが書かれていたならば、私は最後まで読むことはできなかったでしょう。「堤防の上の道のまんなかに、一人の女が横に伸びて死んでいるのが見えた。…(中略)… 三歳くらいの女の児が死体のワンピースの胸を開いて乳房をいじっている。僕らが近づくので、両の乳をしっかり握り、僕らの方を見て不安そうな顔つきをした」この部分を読んで胸がしめつけられました。この児はどうなったのだろう。戦争の犠牲者はいつも一番弱い立場の者です。「黒い雨」では、戦時下の生活や当時の神石高原町での日常生活についても細かく描かれており、私達はそれらを知ることができます。「矢須子が新市町の常金丸村のパーマ屋へ出掛けた」ふ~ん、当時神石高原町内に美容院はなかったのか。「小畠村は昔は武家屋敷もあったが今は、交通の便も悪く廃れるばかりだ」今も昔も神石高原町は過疎化に悩んでいたのかと、つい苦笑いしました。しかし、日常生活の中にも原爆は潜んでいました。矢須子さんの「原爆症」です。直接被爆した訳ではなく、避難している間に黒い雨を浴びていました。直接被爆した重松さんよりも重い症状で、だんだんと体が弱っていきます。矢須子さんを広島へ連れていった自分の責任だと、重松さんは「原爆症」から立ち直った医師の記録を入手し、矢須子さんを励まします。入院もさせ最善をつくしますが、快復の兆しはありません。「五彩の虹が出たら矢須子の病気が治るんだ」と重松さんは願ってこの小説は終わります。戦争は、それまであった穏やかな日常を突然奪うものだと、この小説を読んで感じました。被爆直前まであった日常、それが一瞬にして消えてしまいました。そして、地獄図が広がります。何十年もの間、原爆症に苦しめられます。被爆者には多くの差別もありました。たった一発の原爆が引き起したものは、想像を絶する罪です。決して忘れてはならないものです。8月6日に思いを馳せると「平和のために私達にできることは何だろう。」と考えるようになりました。一人一人にできるのは小さいことでしょうが、それが集まると大きな力になるのではないでしょうか。まずできる小さな事から始めてみようと思います。祈りをこめて鶴を折る、8月6日に黙祷する、平和に関する情報を知る、18歳以上なら選挙に行き平和を守ろうとする人に投票する等々、たくさんあります。今、日本は被爆国でありながら国連の核兵器禁止条約に批准しないとしています。この条約の前文には被爆者がはっきりと明記されているのに、です。その影響か「高校生平和大使」の会議での演説が中止されました。残念です。若い世代こそ平和を受け継がなければならないのに…。市民レベルでの平和の取り組みを少しずつ積み重ね、為政者の人々に地道に訴え続けることが私達の務めではないでしょうか。「平和」であり続けること、あたり前の日常を守ることは次の世代へ伝える最も大切な事だと思います。「戦争はいやだ」と言える時代が続くことを願ってやみません。*『黒い雨』(井伏鱒二・著/新潮社・刊)6広報 神石高原 No.160

元のページ  ../index.html#6

このブックを見る