私学新庄54号
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令和元年五月三日に新庄学園は創立一一〇周年を迎えました。明治四二年に生徒二八人の小さな女学校が誕生して、はや一一〇年の歳月が経ったことを振り返ると感慨に堪えません。女学校の開校式が行われた竜山神社の神域に「新庄女学校創立記念」の文字と、設立資金を出し合った有志三十五人(僧侶二名の名を除く)の名前が刻まれた一基の石灯籠があります。この石灯籠は新庄女学校が開校五年を迎えた記念の碑ですが、この小さな女学校がいつ廃校になるかもしれぬという懸念の中に、自分達が興した事業を何らかの形で後世に残したいという切実な思いが込められています。新庄女学校がいつまで存続できるものかあてにならぬという当時の人々の思いは創立記念として岩国吉川家から贈られた吉川元春公の肖像画が新庄女学校にではなく、新庄小学校に与えられたことからも推測されます。また、昭和四年の創立二十周年記念事業をどれだけの規模で行うかという意見の相違をきっかけに学園は分裂し、存続の危機を迎えますが、これも結局は、豊留アサ先生らの存続派と設立呼びかけ人の武田収三先生ら継続慎重派との意識の違いによるものでした。唐書に「創業は易く守成は難し」という言葉があります。物事を始めることは容易だが、出来上がっていることを守り続けることは難しい、という意味として知られていますが、新庄学園の場合、「創業も難く守成も難し」というべきであったかと思います。ともあれ、創立二十周年より数年間の混乱を経て、後に五十九年間理事長を務められた宮庄榮三氏を中心に、「自力更生」を合い言葉にして文字通り必死の覚悟で学園の再建が進められます。新庄村は村を挙げて学園を支援してくださいましたが、県下最貧村と言われた新庄村の力ではどうすることもできず、教職員の給料は信じられないほどに低く、悲惨きわまりない状態で学校は運営されました。学園関係者はただ豊留先生に励まされ、教えられ、その人間性に惹かれて、皆自分を捨ててこの学園を守ってきたのです。以来、世界恐慌の時代、戦中戦後の混迷の時代、過疎と少子化など、繰り返し襲って来る荒波を新庄学園が、乗り越えて来られことは、まさに奇跡と言うしかありません。明治末期に田舎に生まれた数百の私学の殆どは経営ができずに姿を消しました。全国を見渡しても山間の地に百年を越える私学が存在している例は他にはありません。その奇跡をもたらした力は、かつての諸先生方の犠牲的・献身的な努力であったことは確かですが、そのがんばりを支えた地域の、また卒業生の、さらに在校生の支援と協力は全国のどの学校に比べても見劣りするものではないと断言できます。そして学園を存続させるための多方面の努力の積み重ねが新庄の校風を育て、新庄の教育ともいうべきものができあがっていったものと思います。新庄学園の特徴を次のように考えます。①地域の人々が対等に資金を出し合い設立した「民立」といえる学校であること。②山村の地で田舎の子供達に教育機会を与  えるために設立されたこと。③明治の農村文化に基づく「至誠・質実・協力」の教育理念を維持していること。新庄学園は、人間の全面的な発達を求めるという基本は頑固に守りながらも、県下初の男女共学、習熟度別授業の実施など、先進的な教育制度・教育手法を率先して取り入れ、私立らしい個性ある教育を展開してきました。現在、日本は新しい教育の実現をめざして大きな転換を行おうとしております。わが新庄学園もこの新しい時代に応じて、これまでの教育実践を振り返りつつ、不易と流行とを慎重に区別しながら大胆に改革の道を歩んでいこうとしております。そして今まさにその改革の成功に向けて創立一一〇周年記念事業を興し、さらに魅力ある学習環境を作り上げようとしているさなかにあります。この記念事業は令和元年度~二年度に渡り、学園に縁ある皆様からご厚志をいただくことで完遂することとなっております。少子化がすさまじい勢いで進んでいる現在、教育事業はいずこも非常な困難の中にありますが、どうか本校教職員が力を発揮できますように、今後ともご指導ご鞭撻くださいますよう、またご援助と協力を賜りますようお願い申しあげます。理事長 久 枝   直創立一一〇周年を迎えて2

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