私学新庄55号
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直4新庄女学校の創設は、1908年5月の吉川元春公への正三位追贈を受けて、新庄尋常高等小学校長の武田収三氏が「生きた記念碑」として女学校の設立を呼びかけ、35人の有志による寄付金の拠出を受けて、1909年4月に県より認可を得たとされる。このことは4代校長上田稲吉先生が1940年末に執筆された「新庄学園史」(未発刊)に記載されている。ただし、この経過については、①1年足らずの準備期間で学校を創設することは現実的に不可能と考えられること。②寄附金総額は175円(現在の500万円程度)であり、学校設立資金として過小であること。③男子校でなく女学校を創立した理由が見当たらないこと、が疑問視されてきた。2017年11月に日本女子大学学術研究員の長野和子氏がご夫婦で学園を訪問され、豊留アサ先生の研究を進めておられることを説明され、いくつかの史料を求められた。そして、その研究成果が2020年3月に「新庄女学校における『自学自動』の教育実践」と題する論文となって発表された。この論文の眼目は豊留先生の教育実践の解明であるが、その「新庄女学校の誕生」の項で、当時の山県郡役所の記録から、新庄女学校の設立は郡内に女性教員養成施設を設けようとする山県郡役所の意図と関連があったことを考察されている。まず、「山県郡報」によれば、1911年に300円、1914年に450円などと金額は上下しつつも継続的に郡役所より「私立新庄理事長 女学校教員給料中に補助」がなされている。設立費用の数倍の金額が郡より補助されたもので、女学校経営に決定的な役割を果たしている。次に、1911年の「山県郡報」では「山県郡が山間僻地であるため、山県郡出身の教員の多くが他郡で就職する。特に女性教員の不足は深刻であり、山県郡の全女性教員65名の中で山県郡出身者は2名のみである。」「子女を教育する女教員は同じく郡部に於ける相当設備の下に修養するを最も適当なり」と述べられている。少なくとも山県郡においては、郡内の「農村教育」に携わる教員不足という問題があり、しかるべき女学校を山県郡内に設立することが緊要な課題であったようで、新庄女学校設立当初の教育目的が「農村的婦女の養成」「農村的小学校教員の養成」であったことと見事に呼応する。これらの動きには背景があり、1908年に明治天皇より「戊辰詔書」が発布され、全国で疲弊した農村を改良するための地方改良運動が本格的に始動し、「町村振興のために(中略)教育と教化の必要性が一様に強調された」のである。この動きに従い、1916年設立の中黒瀬村私立土肥実科高女など「農村本位の教育」を求めて全国の農山村に私立女学校が相次いで設立されている。以上の長野和子氏の研究により、新庄女学校の創立は、山県郡役所の女性教員養成施設設立の希望に沿うものだったことが明らかになった。このことは重要で、①元春公への追贈決定以前に学校設立の動き久 枝   新庄学園成立についての考察

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