私学新庄55号
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が始まっており、教育目的などの学校の骨組みが定まっておれば、短期間での設立が可能である。②山県郡役所からの支援の見込みがあれば少額の資金で学校創設が可能である。③山県郡役所は女学校設立を求めていたのであるから、新庄“女学校”の設立は必然となる。推察すると、1906年5月の地方改良事業を内務省が提起して以来、山県郡でも農村の再興について多様な動きがあったはずで、その中で女学校の設立が山県郡から希望されていたのであるから、1908年2月の新庄小学校移転の村議会議決以前に女学校設立の論議は始まっていなくてはならない。つまり、現在のスクールバス駐車場にあった旧新庄小学校が1909年8月に龍山神社下に新築移転されるため、旧校舎が女学校校舎に使用できることが折り込み済みであり、教員の給料も山県郡から支給される見込みがあったとすれば、有能な教師を招くことさえできれば女学校経営が可能となる。すなわち、明治政府による地方改良運動を背景として、山県郡役所の郡内における教員養成のための女学校設立の希望があり、なにがしかの検討が進められていたところに、1908年4月の吉川元春公追贈決定のご沙汰があったのである。まさに好機到来。武田収三氏らにとって、この新庄の地に女学校を設立する絶好の名分を得るものであったろう。山県郡役所の清水増治視学(郡の教育長にあたる)は、新庄女学校設立のため県との交渉の先頭にたったと伝えられる。清水視学も武田収三氏と並び新庄女学校設立の仕掛け人であったのかもしれない。願わくは明治末期の地方改良運動で生まれた私立学校の唯一の生き残りたる新庄学園の輝ける校史をさらに積み上げていきたいものである。中野公則・和子 ご夫妻(2017年11月6日来校時)5

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