私学新庄56号
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(10人のうち1名が捕虜)は、勇躍「志願」し「特別攻撃」を行った勇士として「殉令和3年の10月、私は愛媛県伊方町の三机湾を訪ねた。80年前に真珠湾攻撃のために特殊潜航艇の乗組員が2ヶ月に渡り必死の猛訓練を行った場所である。宮庄良行先生からその存在を知らされ、かねてから一度は訪ねておきたいと思っていた。九軍神の一人、上田定兵曹長について、わかる範囲で記録を残しておきたいと思い、稿を寄せることとした。昭和16年12月8日、日本は米国・英国に宣戦を布告し、太平洋戦争が始まる。この日、開戦劈頭、日本海軍はアメリカの要衝、ハワイの真珠湾への航空攻撃と小型潜水艦(特殊潜航艇)による奇襲攻撃を行い、アメリカ太平洋艦隊をほぼ壊滅させる大戦果をあげた。この特殊潜航艇の攻撃詳細が大本営から発表されたのは、明けて昭和17年3月7日のことである。大型潜水艦から発進した2人乗りの5隻の潜水艇が敵軍港に忍び込み、敵艦を魚雷攻撃しようとしたもので、生還の可能性は皆無と言える。戦死した9人忠古今に絶す軍神九柱」と讃えられた。そのうち横山正治艇の艇付として新庄中学校6回生の上田定(かみた み ことで、近隣は大騒ぎとなった。その月のうちに、呉鎮守府長官豊田副武大将(後に連合艦隊司令長官)の一行が車列を組んで来校され、中学校西門脇には「軍神上田兵曹長之母校」の木大正5・10・24)二等兵曹(死後二階級特進して兵曹長)の名前があった柱が立てられた。中国山地の山中にあって知る人も少なかった新庄中学校はたちまちにして注目を集め、新庄高等女学校を含めて生徒増が続き、戦後もしぱらく影響が収まることはなかった。が残された。6人兄弟の中で定氏だけが新庄中学校へ進学した。上田家では商売の失敗があって、経済的には極めて困窮していたという。定氏が新庄中学校へ進学したのは、定氏の才を惜しんだ蔵迫小学校の田中勝人先生の勧めがあって母さくさんが夫を説得した結果であったらしい。入学時の同級生は18名であったが、2年次には13名となった。昭和初期の全国の中学校進学率は8%であり、当時の中学校は経済的に恵まれた一部の生徒しか進学できず、高額な学費のため中途退学も多かった。裕福とも言えない農家の長男であった定氏が進学するのは大変であったと容易に想像できる。当時はバス便も少なく、定氏は徒歩で通学した。6キロ余の道を徒歩で通うのはかなり大変だったようで、学籍簿にある欠席と遅刻の数は毎年20~30日にのぼる。一緒に中山の峠を越えて通学した同級生たちにも同様の欠席・遅刻があること、残された学籍簿には「身体強健・誠実・品行良好」とあることから、怠学は考えられない。在学中の成績は当初は下位であったが、一年ごとに成績は上昇し、卒業時は中程の成績である。いずれにせよ定氏が新庄中学で相当の困難を越えて、一定の成績を残してきたのは本人の努力以外にはありえないものである。上田稲吉校長は昭和17年5月に定氏について次のように述べている。「上田君には別に之こと言った特徴は無く、平凡で地味な生徒でした。殊こに無さだ口でありましたし、学業も飛抜けて優秀ではなかったため、格別に強でい印象は留めて居ないやうです。併しし、先生が一旦かうと命令したことは飽あ迄ま徹底的にやると云つた性質でした。必ずやり抜くと云ふ点は他の生徒とはっきり区別する上田君の特性でしたらう。と云つて積極的と云ふ程でもない。之はその温順な気質から来たものと思ひます。」と、そして、上田定氏の特筆すべき点として、上田定氏は現北広島町蔵迫の上田市右衛門の長男として昭和4年から昭和9年までの5年間、旧制新庄中学校に通学した。上田定氏が戦死した時、上田家には、父母と5人の弟妹理事長 久 枝   上田定兵曹長と新庄学園特殊潜航艇の攻撃を伝える新聞中学校門横に立てられた木柱、後に知新館須賀公園から三机湾を望む上田定兵曹長    直かく  れと   4

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