私学新庄56号
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1年次から5年次まで、毎年成績が向上し続けたことを示して、その強固な向上心と努力をいとわぬ自啓の精神を賞嘆されたのである。定氏は中学卒業時でも身長161センチ、60キロと小柄であるが、強健であったと伝えられる。常には相撲部に属していたが、昭和8年7月の全国中学野球、広島商業戦(47対0で大敗)にも最上級生として出場している。上田定兵曹長の特攻死以後、「生家詣で」の人々はひきも切らなかった。新庄学園にも多くの訪問者があった。誰もが決死の作戦に志願した定氏の人となりを賞賛した。しかし、真実は「志願」ではない。有能・沈着・独身・兄弟が多いことなどを条件に選抜されたものである。定氏は中学卒業後、将来海外へ移住する夢をもって呉海兵団に入団し、水雷学校普通科、舞鶴防備隊潜水学校を経て以後潜水艦に乗務し、その後、15年6月に水雷学校高等科を抜群の成績で卒業しており、この経歴が選抜の理由と考えられる。家庭状況が十分に考慮されたわけではない。定氏は16年9月半ばに最後の帰郷をした。決死の任務に選抜されて三机に移動する直前である。その時、志路原川にかかる木橋が洪水で流されていたので、川に全身をつかり、これをかけ直す作業を行った。その夜から40度の熱を出し、高熱のまま呉に帰っていったことは「軍人の鑑」として全国に報道された逸話であるが、その時に定氏は「志願して行くのではない、上の命令で行かずにならなくなった」と言い残したと母さくさんが述べている。これは、「同乗上田兵曹の遺族に対しては気の毒に堪へず」と書き残した横山正治中尉の遺言と呼応する。母のさくさんは祝福に訪れた増本隆一川迫村長に「いっそおめでたいことじゃありません。はあえっと言わんこう往いんでくれんさい。」と大変な剣幕で追い返したと伝えられている。特殊潜航艇はその存在も極秘であったので、真珠湾攻撃に至る経過も明確でない。現在わかることは次のとおりである。特殊潜航艇の乗員は9月下旬から愛媛県三机湾で猛訓練を重ねた後、11月18日に5隻の潜水艦の背に乗せられて呉軍港を出航した。横山艇は5隻の特殊潜航艇の先頭を切って伊16潜水艦より0時42分に発進し、5時前に真珠湾突入に成功、海底で待機したのち、航空攻撃の後に艦船攻撃を行った。湾内に突入できたのは2艇だけであったが、横山艇から10時40分に「われ奇襲に成功せり」と打電がなされ、深夜0時50分に「航行不能」の発信がなされている。なお平成6年12月に米軍が当時の写真をコンピューター解析した結果、戦艦オクラホマに対して発射された潜水艦魚雷の航跡が発見され、横山艇の攻撃成功の可能性が一気に大きくなった。横山艇は攻撃後、真珠湾脱出を企図したようであるが、以後、真珠湾から脱出した潜航艇はない。後に、平成14年8月にハワイ大学海洋調査研究所が真珠湾外の深海に三つに分断された特殊潜航艇を発見し、これが唯一沈没が確認できていない横山艇であろうと報道された。とすれば、一旦破壊された後に、湾外に移送、廃棄されたものだろうか。詳細は不明である。すでに述べたように、上田定氏は志願したのではない。生還の可能性のない作戦に選抜されたのである。一家を支える定氏を失った上田家の悲しみと恨みは言葉にならないものがあった。しかし、そのことは戦時中は報道されることはなく、経済的に上田家を支える施策も不十分なものであった。戦争が終わり、九軍神のことは侵略戦争の加担者として、口にすることもはばかられるまま、年月が流れた。昭和41年8月、三机にある須賀公園に「大東亜戦争九軍神慰霊碑」が建てられ、内閣総理大臣佐藤栄作の筆により「噫殉国忠勇平和礎石の九軍神」から始まる碑文が記された。昭和45年12月8日には山県郡遺族会によって、生家の前に「真珠湾特別攻撃隊に挺身参加し遂に護國の華と散」った定氏の「功績を称え冥福を祈る」慰霊碑が建立された。石碑の「慰霊」の文字の揮毫は真珠湾攻撃を具体化策定した源田実参議院議員である。遺族にとっては複雑な思いだったという。その翌年、生家の前に記念館が建てられ、上田家にあった定氏の遺品が収められた。上田定氏を記した本校学籍簿には「寡言・従順・品行良好・思想穏健・言語明晰・純真なるを長所とし、稍や々や敏捷をかき挙止鮮明ならざるを短所とす」とある。定氏は親思い兄弟思いの純朴な青年であった。黙々として労を厭わぬ努力家であった。特別攻撃を志願したことはなく、ただその時の能力・資質が目にとまり選抜されたものである。戦時中の国策により軍神とあがめられたことを本人はどう受け止めるであろうか。私は上田定氏の事績を追う中で、「慰霊」という言葉では言い尽くせない上田定氏とその家族の「無念」が迫ってきてならない。蔵迫・上田家前の慰霊碑と記念館三机須賀公園の慰霊碑     5       

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